スタジオジブリの作品で作画監督を務めてきた安藤雅司さんの初監督作品、「鹿の王 ユナと約束の旅」が映画館で公開されている。アニメーター出身の安藤さんは、ジブリ退社後にさまざまなジャンルの作品に参加しており、今敏監督の「東京ゴッドファーザーズ」(2003年)では作画監督を務めている。
クリスマスから大晦日にかけて、3人のホームレスが捨てられた赤ん坊の親を探して歩く「東京ゴッドファーザーズ」だが、ご覧になった方はどんな印象を持っただろう? 「温かい」「ユーモラス」「人情味がある」……といった感想ではないだろうか。脚本レベルから見ると、この映画は推理ドラマのように進行する。
3人のホームレスに目的を与える、3つの手がかり
まず、身元の不明な赤ん坊を見つけた3人のホームレス(妻子と別れた中年男のギン、オカマのハナ、女子高生のミユキ)は、赤ん坊の布団の下にコインロッカーの鍵があることを発見する。コインロッカーを開けると、たくさんの荷物の中に、いくつかの手がかりが見つかる。
【A】若いカップルが自宅前で撮った写真
【B】なにかの鍵
【C】スナックの名刺
このうち、3人は【C】にだけ注目して、そのスナックのオーナーの結婚披露宴に招待されることになる。披露宴の場で、ミユキが外国人の暗殺者の人質にとられるという予想外の展開となり、ギンとハナは喧嘩別れしてしまう(このシーンで、ギンの手元に【A】が残されている点に注目)。
3つの手がかりを見つけてから3人がバラバラになるまでに、およそ14分かかっている。【C】によって3人は「赤ん坊の両親を探し当てる」ゴールからは遠回りさせられただけだが、ミユキがたまたま出会った外国人の女性に身の上話をするシーンに顕著なように、遠回りをさせることで3人の複雑な境遇が浮き彫りになる構造となっている。では、残り2つの手がかり、【A】と【B】はどのように使われているのだろう?
ひとつの謎が解けると同時に、もうひとつの謎も明らかにされる
ハナは連れ去られたミユキと合流し、ギンは行き倒れた老人のホームレスを助ける。その老人の家は段ボールで作られており、一部には新聞紙も使われていた。それを見て、ギンは【A】の背景に映った高層マンションと新聞広告の写真が一致することに気がつく。
3人は、かつてハナの務めていたスナックで再会し、今度は[A]を手がかりにして東京を歩き回る。このシーンはセリフがなく、軽快な音楽だけで3人の道行きを追う。
〈1〉横断歩道を歩く。
〈2〉正月のしめ飾りを売る露店の前を歩く。
〈3〉ハンバーガーの広告の前を歩く。
〈4〉マンションの隙間のゴミ捨て場で食料を探し、小さな神社で食べる。
〈5〉ファミレスで夜明かしする。
〈6〉橋の上を走ってくるミユキが指さすと、[A]に映っていた高層マンションがある。〈7〉マンションの近くの歩道を歩く3人。
〈8〉雪がひどくなり、商店の軒下で雪をさける。
〈9〉解体中の住居の中へ逃げ込む。
ほぼ1分間にわたって音楽のみで、手がかりであるマンションへ少しずつ近づいていく3人を追っている。〈5〉は、計5カットを同ポジションから撮っており、途中で窓の外に雪が降っているカットがある。〈6〉~〈8〉でも雪が降りつづけ、〈9〉で空き家に逃げ込むまでの必然的な流れをつくっている。
そして、ミユキは空き家から買い物に出ようとして、その場所から【A】の写真とまったく同じアングルで高層マンションが見えることに気がつく。実は、彼らが雪から逃れて入りこんだ空き家の隣が、【A】で若いカップルが撮影した新居だったのだ。
ところが、カップルが写真を撮った新居は取り壊されたあとで、現在では玄関のドアが残っているだけであった。ここで登場するのが、【B】の鍵だ。それは、空き地に残された玄関の鍵だったのだ。ギンが鍵を差し込むと、果たして、玄関の扉は開く。ギンは扉をくぐって、「ただいま……」と力のない声で呟き、ドアを閉める。近くを通った車の振動で、ただひとつ残されていたドアは倒れる。3人は、何もない空き地に呆然と立ち尽くす。
【A】の真実が明らかになると、【B】の謎も同時に解かれる……という、念入りな小道具の使い方だ。
「主人公の目的」と「映画の目的」は、いつも一致するとは限らない
「赤ん坊の両親を見つける」3人の目的は、またしても空振りに終わってしまった。だが、主人公たちの目的が達せられなければ、映画は面白くならないのだろうか? むしろ、「赤ん坊の両親を見つける」ゴールが遠ざけられたからこそ、【A】の謎が解けると同時に【B】の謎も明らかになるというドラマの凝り具合をじっくり楽しめるのではないだろうか? 面白い映画は、ある程度までは観客の予想どおりに進むが、もう半分では観客の期待を裏切る。「東京ゴッドファーザーズ」の面白さは、「問いを想定すると、より大きな真実によって答えがかき消される」「思わぬ方向から答えが横入りしてくる」推理ドラマの面白さだ。裏切られるから、面白い。
そして、もうひとつ大事なことがある。
翌朝、空き地に集う猫たちにエサをあげにきたおばさんが「あんたら、こんなところに泊まったの? やだよ、ホームレスじゃあるまいし」と、3人に言う。かつて家のあった空き地に「ただいま……」と帰宅するシーンが、彼らに「家がない」事実を、あらためて観客に突きつけているのだ。上に列挙した〈1〉~〈8〉も、世間は年明けに向けて動き出しているのに、彼らに「居場所がない」ことによって成立しているシーンばかりだ。
映画の終盤、赤ん坊の両親は偶然の連鎖によって、あっさり見つかる。すなわち、「赤ん坊の両親を見つける」ことは3人の目的でしかなくて、映画の目的ではない。答えを探しては裏切られる推理ドラマを面白く展開するいっぽうで、主人公たち3人の抱えている余白、枯渇、彼らに何が「ない」のかをあぶり出すことこそが映画の目的であり、だからこそ映画は豊かで創造的になるのではないだろうか?
(文/廣田恵介)