「エクスカイザー」から「ダ・ガーン」まで……谷田部勝義監督が、30年前の「勇者シリーズ」の始まりを振り返る【アニメ業界ウォッチング第62回】

タカラ(現・タカラトミー)がメインスポンサーとなり、合体・変形するロボット玩具をアピールするために制作されたアニメ番組「勇者シリーズ」は、90年代を通じて、サンライズを代表するシリーズへと大きく成長した。第1作「勇者エクスカイザー」が放送されたのは、1990年2月。翌年の「太陽の勇者ファイバード」(1991年)、翌々年の「伝説の勇者ダ・ガーン」(1992年)まで、初期「勇者シリーズ」3作品の監督を務め、シリーズの屋台骨を固めたのが谷田部勝義監督だ。
1990年代初頭、子どもたちの趣味や価値観が変化する中、谷田部監督はいかにして低年齢層向けの新たなシリーズを立ち上げたのだろう? ご本人に、30年前を振り返っていただいた。

幼児向けロボットアニメが枯渇していた80年代末期

── 谷田部監督は、80年代のサンライズのロボット物には、神田武幸監督の「機甲戦記ドラグナー」(1987年)まで広く参加してらっしゃいますね。

谷田部 僕は「サイボーグ009」(1979年)に制作進行として参加して、富野由悠季監督の「伝説巨神イデオン」(1980年)に演出助手で入らせてもらって、その後は高橋良輔監督の「太陽の牙ダグラム」(1981年)、「装甲騎兵ボトムズ」(1983年)、「機甲界ガリアン」(1984年)、「蒼き流星SPTレイズナー」(1985年)で、絵コンテと演出を担当しました。その後は劇場版の「ダーティペア」(1987年)で、真下耕一監督の下に演出としてつきました。ですから、富野さん、良輔さん、神田さん、真下さん……という流れで仕事をしてきました。

── それらの80年代サンライズ作品に比べると、勇者シリーズは年齢層が低めですね。

谷田部 もともとロボットアニメは、オモチャを欲しがる幼稚園児から小学校低学年が対象でした。その子たちがどんどん成長して、80年代には商品の形態も変わっていきました。「機動戦士ガンダム」(1979年)では、ザクならザクをいっぱい買い集めるようなコレクション性が重視されましたよね。気がついてみると、小さな子に向けた番組がなくなっていたんです。ですから、当時のプロデューサーだった吉井孝幸さんは、とにかく低年齢向けアニメをやりたいという意向でした。子ども向け番組として、井内秀治監督が「魔神英雄伝ワタル」(1988年・谷田部氏は絵コンテ・演出として参加)を手がけたわけですが、「魔動王グランゾート」(1989年)、「魔神英雄伝ワタル2」(1990年)まで来ると、井内さんの「ヒロイックファンタジーをやりたい」という気持ちがあるせいか、自然と対象年齢が上がってきてしまうんです。それ以前の「ダグラム」などは巨大ロボットが先にあって、それをSD化したキャラを使って、オマケ的な劇場版の短編として展開していました。しかし、「ワタル」は最初からSDキャラの小さなロボット、小さなオモチャを出そうというコンセプトでした。ということは、まっとうな巨大ロボットで、なおかつ幼児向けのアニメはなくなってしまっていたわけです。
吉井さんは幼児向けのロボット物をつくるつもりでしたが、企画の山浦栄二さんは、今は兵器的なリアルロボット物が売れているんだから、高年齢向けのリアル物をつくればいいと言うんです。ロボットに人格があって、地球征服を狙う敵がいて……といったスーパーロボット物は、山浦さんは考えていなかったようです。そのころ、タカラ(当時)さんはハズブロ社に自社製品の海外展開の権利を預けて、世界観も商品サイズもバラバラなコンテンツを「TRANSFORMERS(トランスフォーマー)」としてまとめられて、それが世界的に売れてしまったという事情がありました。海外の「TRANSFORMERS」を逆輸入して国内で売ったところで、もともとは自社製品ですから、タカラさんにはメリットがないわけです。そこで、変形合体のノウハウは生かしたまま、まったく新しいタイトルでロボット物を始めたいと、タカラさんからサンライズに打診がありました。先ほど言ったように低年齢層向けの巨大ロボット物が途切れていたので、吉井さんは最初から何年も続けるつもりで、その話を引き受けました。

── すると、タカラさんからの持ち込み企画だったわけですね。

谷田部 いえ、企画ではなくてタカラさんが持ってきたのは合体変形するオモチャだけで、タイトルも内容も決まっていませんでした。タカラさんから「こういうオモチャを売りたいんですけど」と原型になる試作品を見せてもらって、サンライズからは「何か話を考えて」と言われたわけです。タカラさんとも相談しながら、弟子の高松信司くんと一緒に話を考えていきました。

── 「勇者エクスカイザー」(1990年)のシリーズ構成は、平野靖士さんですね。

谷田部 平野さんは、テレビ版の「ダーティペア」(1985年)に脚本家のひとりとして参加していました。プロデューサーは吉井さんだったのですが、どうも平野さんのことを気に入らなかったらしいんです(笑)。テレビ版とは別に、僕は劇場版「ダーティペア」に演出として参加した流れで、10本ほどのOVAシリーズ(1987年)の監督をやりました。そのOVA版に、平野さんに参加してもらったんです。テレビ版と同じ路線の話を5本、テレビ版から外れた話を5本やることにしました。後者の、基本路線から外れたエピソードを平野さんにお願いしました。オーダーをクリアしたうえでプラスアルファを乗せてくれる脚本家で、僕とはウマがあったんです。吉井さんは平野さんのことを気に入らなかったかもしれないけど、勇者シリーズは「谷田部に任す」と言ってくれた。ということは、僕が平野さんをシリーズ構成にするのも拒否できないはずなんです(笑)。はたして、第1話のシナリオが上がった時点で、吉井さんは平野さんを認めてくれました。