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突然世界中が敵になった高校生の、生きるための必死の戦いを描く「亜人」のTVシリーズの放送が始まりました。11月に第1部が公開された3部作の劇場版とはどう違うのか? また、どんなところがおもしろいのか? 原作と劇場版第1部を知るアニメライターの筆者から、今後の楽しみ方を提案します。
シンプルにしてユニーク。死んでも死なない“亜人”
亜人(あじん)とは、死んでも生き返る不死の新人類だ。普通の人間から生まれ、亜人かどうかは死んでみないと本人もわからない。
この物語は、ある日交通事故にあって自分が亜人だとわかった高校生男子・永井圭が、警察をはじめとする世界中に追われる身となるところからスタートする。
日常は崩れ、世界は豹変する。捕まれば実験生物として苦しむ日々が待っているから、それはもう必死で逃げる。味方は幼なじみの年の近い友人1人だけ。
突然変異の超能力を獲得した新人類は他作品にも登場するが、それらに比べて、亜人の能力はシンプルだ。死んでも死なず、すぐさま生き返る。ただそれだけで、吸血鬼のように強靭な肉体があるわけではない。
しかし、物語が進むにつれて、この「死んでも死なない」の怖さが見えてくる。また、それに対抗する手段もあることがわかってくる。それはつまり、亜人の圭も無敵ではないということだ。
視聴者は、何も知らない圭と一緒に、亜人という存在の恐ろしさと、迫害される亜人が感じる恐怖の、両方を味わっていくことになる。#01でぐいぐいもっていかれた「どうする? どうなる!?」の緊迫感は、まだまだずーっと続くのである。サスペンス好きにはたまらない。
「シドニアの騎士」を手がけたポリゴン・ピクチュアズが制作するフルCGアニメーションの表現力は見事だ。シリアスな人間ドラマや、感情の発露、生き物らしい無骨な動きを、CGアニメでここまで描けることに驚く。
TVシリーズ第1話の前半で、トラックに轢かれた圭が生き返り、トラックの下から這い出す苦しげな動きなどは、そのひとつの例だろう。
いっぽうで、黒い粒子をまといながら、ジリジリと何かが焦げるような音を立てながら、死んだ肉体が復活していく描写は、超常描写を視覚化するCGの面目躍如だ。ヒトではない不気味さと、反応の強さ・速さ・激しさが、感覚的に伝わる。こういうざらついた表現が、CGアニメは本当にうまくなったと思う。
亜人と縁の深い存在で「黒い幽霊」と言われる「IBM」の不気味な存在感やアクション描写も、この先の大きな楽しみだ。
共感する? しない? 合理的な主人公のサバイバル
「亜人」は群像劇でもあるが、ストーリーの中心にあるのは明確に、主人公である永井圭だ。圭が逃亡し、知恵をこらし、生き抜いていくところにドラマの本筋はある。
だがそのいっぽうで、圭はある意味、共感を得にくい主人公でもある。
圭というキャラクターを理解する重要な鍵となるのが、第1話で交通事故にあう直前の彼自身のモノローグだ。
「立派な人間になる。そのためには必要なことだけをして、必要なものだけを選んで、必要じゃないものは切り捨てなきゃいけないんだ」
少年漫画なら、こういう受験のことしか考えていない頭でっかちな主人公が、自分の知恵と勇気と身体ひとつで生き抜くことの充実感を知ったり、仲間との絆を知って成長していくのが王道の展開だ。
ところが、青年漫画が原作のこの作品だと、そうはならない。どこかゆがんでいるようにも感じられる圭が、この考え方をさらに突き詰め、亜人になった自分の運命を生き抜いていくことになる。つまり、「自分は死んでも死なない」という現実を前提に、もっとも効果的な次の行動を選んでいく。
「立派な人間になる」を、「亜人として生きていく」に置き換えただけだ。おかげで、もともと妹から毛嫌いされていた圭は時に、視聴者が見ていても「え、そこでそうしちゃうんだ!?」と思えるような言動を見せていくことになる。
だが、考えてみればこれは多かれ少なかれ、どんな人でも持っている考え方ではないだろうか?
アニメやドラマで、人の連帯や夢、理想、熱い思いが実現していくストーリーに爽快感を感じつつ、「まあ、それはフィクションの世界の話だけどね」と割り切り、現実では、学校で居場所を作り仕事を成り立たせ家族で穏やかな生活を送るために、物事に“現実的に”対処している。
必要なことを選んで、優先度の高い順に実行する。余分なものは切り捨てる。ビジネスライクな、大人の世界では当然とされる価値基準で、これができる人ほど評価されたりする。
その能力を、異常な事態が起こったときにフル回転させたらどうなるのか、というのが、このストーリーの醍醐味のひとつだ。
圭が下す判断と迷いのない行動は、ときに非情に、あるいは不可解に思える。その行動と思考は、次第に強化されていくといってもいい。
大人でもなかなかできないような割り切りを、「立派な人間になるため」ではなく、「生き抜くため」に使う圭は、まだ高校生だ。
だが、「亜人」という運命は、圭を高校生だからと甘やかしはしない。人に運命を握られて苦しみながら生きるのか、半歩でも先を読んで、少しでも穏やかで満足がいく自分が望む人生を生きるのか。
亜人にならなくたって、じりじりと狩り立てられるようなその感覚は、今の時代、多くの人が感じているものだ。
凄惨な状況の中で、あくまで合理的にひとつひとつの決断を下し、全力で生き抜いていく。そういう主人公の物語だと思うと、緊迫感のある展開は、さらにおもしろみを増す。
この関係性がおもしろい。圭をめぐるキーパーソン3人
圭に関わるキーパーソンを3人紹介しよう。
1人は、第1話から登場している、圭の友人の海斗(通称カイ)だ。幼なじみの圭を今も友達と考え、圭のために動くことに躊躇しない。
圭が一番苦しいときに、見返りを求めない行為を示してくれたのがカイだ。合理的な圭が心から感謝をする相手がいるとしたら、彼以外いない。圭のこの先の選択に、カイの果たす役割は大きい。
もう1人は、劇場版第2弾での登場が予告されている中野攻だ。同年代の少年でやはり亜人だが、圭とは対照的。深く考えることが苦手な熱血タイプで、亜人になっても持ち前の愛嬌のよさを失わない。
かみあわない圭と攻の会話は、まるでコントのようだ。凄惨な出来事が多いこの物語の息抜きのように、不思議なおかしみをかもしだしていく。
合理的で危機対策に強い圭と、おバカだが人間味のある攻。あなたは圭と攻、どっちに共感するだろうか? 友達にするなら、そして仕事のパートナーにするなら? そんな視点で見てみるのもおもしろいだろう。
そして、真に恐ろしいのは“帽子”というコードネームで呼ばれる佐藤という男だ。言葉、ふるまい、そこから明らかになっていく個性やものの考え方、声の響き。どれをとっても恐ろしい。どのように圭の前に登場し、何を持ちかけてくるか、ぞわぞわしながら楽しんでほしい。
多重的にふくらんでいくイメージを楽しむ
オープニングやサブタイトル画面、エンディングに登場する動く唐草文様は、血の暗示だ。サブタイトル画面では、見通せない未来を示す闇のような紺の背景に、強調した1文字の赤が印象的に残る。
緊張が続く本編の展開とはトーンを変えた、静謐で美しいイメージのエンディングがいい。影絵の絵本のように、永井圭が体験する死と暴力のイメージが淡々と続く。そこに、圭を演じる声優でもある宮野真守のバラードが切なく響く。
アクションとサスペンスの世界とはまた異なる「亜人」の世界が浮かび上がる。美しいけれど哀しい寓話。1人の人間が繰り返し体験する死の重みは、考えすぎると恐ろしいが、おとぎ話のように遠くドラマチックでもある。
各話のサブタイトルは、劇中の圭のセリフからとられている。#01は「僕らには関係ない話」。#02は「何でこんなことになったんだ。僕は悪くないのに」。#03は「もうダメじゃないかな?」。このパターンが続けば、圭の視点から見たドラマをサブタイトルで追えそうだ。
公式サイトの瀬下寛之総監督のコメントによれば、TVシリーズは、「劇場版では描かれなかった心理描写や状況描写をより深く掘り下げ、劇場版をさらに緻密な物語へと昇華していきます」という。この先、原作にある細かいエピソードや、キャラクターがより深く理解できるシーンなども期待できそうだ。
また、TVシリーズ中盤以降は、劇場版第1部ラストシーン以降の物語に入るらしい。
劇場版を見ていれば見る必要がないかというと、さにあらず。劇場版を見ているからこそTVシリーズが見たくなる構成になっているようだ。
過不足なくひと息に楽しめた劇場版から、さてどんなところがどうふくらむのだろうか。劇場版を見た人も見ていない人も、そして原作をすでに読んだ人も読んでいない人も、ここから始まるTVシリーズで「亜人」という作品を楽しんで損はないだろう。
(文・やまゆー)