平成後の世界のためのリ・アニメイト第2回 「リズと青い鳥」が奏でた〈disjoint〉のアンサンブル―――映画的なものと音楽的なものをめぐって

平成期が終焉を迎えようとしている中、アニメを取り巻く状況もまたひとつの転換期を迎えている。今、アニメは果たしてどこへ向かおうとしているのか……?

気鋭の評論家・中川大地が現在進行形のアニメ作品たちを読み解き、「平成」以降の時代を展望する連載コラム第2回!

前回取りあげた「この世界の片隅に」のエンディングロールでは、原作では描かれなかった戦後の世界に暮らす北條家の人々の生き様が、「もうひとつの戦後史」の可能性として点描されていた。

この光景は、言うなれば戦後日本の現実を照射し続けた〈仮想現実〉たる20世紀劇映画の遺産「シン・ゴジラ」的な主題と、21世紀的な情報メディアによって現実の中に見えざる異界を幻視しユーザー自身の〈拡張現実〉体験が生成される「ポケモンGO」的な受容の融合だ。

このようにして、「この世界の片隅に」は2016年のカルチャーインパクトを締めくくり、やがて〈複合現実の時代〉として立ち現れていくだろう、平成後の世界へとタンポポの綿毛を振りまいたのである。

 

これを受けて、2016年以降の日本アニメでは、昭和から平成にかけての戦後アニメ史を締めくくりリスタートを図るような、新たなイメージとヴィジョンの模索が進行しているように思う。

その徴候が、ひとつわかりやすいかたちで顕れていたのが、筆者が先に論じた岡田麿里監督の「さよならの朝に約束の花をかざろう」であった(※ご興味の向きは、リンク先を本連載の事実上の「第2回」として読んでいただければ幸いです)。

 

このような切り口から、本連載では現在進行形の注目作を時評していくつもりだが、今回もまた、気鋭の女性監督による劇場作品を取りあげたい。

京都アニメーションに所属する山田尚子監督の最新作「リズと青い鳥」である。

 

「京アニフォーマット」の転調者としての山田尚子

 

なぜ山田監督作品を取り上げたか、その脈絡は、ここまでの問題提起にお付き合いいただいた方々にはおわかりだろう。

彼女もまた、「君の名は。」「この世界の片隅に」と並び、映画「聲の形」で大きなインパクトを残した「2016年映画」の旗手の一角にあたる監督だからだ。そして脚本の吉田玲子やキャラクターデザインの西屋太志、さらには音楽の牛尾憲輔と、同作の制作チームが再結集した最初の映画として送り出されるのが、「リズと青い鳥」ということになる。

 

振りかえれば、2016年に並び称されたヒット作ラッシュの中で、「聲の形」は最も異質な作品であった。

それぞれに震災や戦災のモチーフを抱き、国民的に共有されている大きなテーマ設定のスペクタクルを含んでいた他の作品群に比べ、聴覚障害者の少女へのいじめ経験に基づく男子高校生の内面の問題を扱った本作の題材スケールは限定的で、依って立つ文脈はかなり異なる。

その立ち位置の特徴を端的に言いあらわすなら、京アニが得意としてきた、現実模写型の背景美術の上で学園青春もののキャラクタードラマを展開する表現手法の爛熟を生かしながら、シリアスな現実性に貫かれたテーマに切り込む道に挑んだことにある。

 

山田尚子の作品歴をさらに遡れば、「けいおん!」(2009年)から「映画けいおん!」(2011年)へ、「たまこまーけっと」(2013年)から「たまこラブストーリー」(2014年)へと、TVシリーズの監督後にその特別編的な映画を制作する経験を2度重ねている。

それぞれTVシリーズ時点では、記号的に理想化された美少女キャラクターたちが、現実性のノイズを排して描かれる“優しい共同体”を舞台に、特別なドラマの起こらない中で他愛のないホモソーシャル・コミュニケーションを延々と繰り広げる、2000年代後半に「日常系」「空気系」と呼ばれた流行タイプの代表格にあたる作品だった。

それが劇場版では、かたや卒業旅行からの離別、かたや直球の異性愛を通じての成長と、いずれもモラトリアムの終焉を繊細なアニメイト手法で演出。すぐれて古典的な成長物語に回帰するかたちで、京アニ的な多幸感あふれるユートピアは有限であるからこそ美しいという無常観を示してみせた。

 

山田のこうした作家性は、ちょうど同時代に岡田麿里が「虚構の中に現実のスパイスを擦り込む」手法で頭角を表してきたのとも軌を一にしつつ、2010年代の現代ものアニメの一潮流を築いてきたと言えるだろう。

そうした履歴を意識すれば、漫画界でも物議を醸した大今良時の同名原作を映画化した「聲の形」は、さらに一段階、近代文学的なリアリズムの側に踏み出すものだったことがわかる。結果として、人間の生々しい弱さや醜さがえぐり出されていくシビアな現実性の痛みを甘受可能なものにするための緩衝材として、京アニが積み重ねてきたキャラクター表現と「日常系」の演出様式が、ここでは転調されていたのだと言えるだろう。

 

つまりは京アニフォーマットの換骨奪胎の上に、アニメで表現しうる虚構性と現実性の意識的な再編が試みられていたという点で、「聲の形」という作品には、まぎれもなく「2016年映画」としてのモーメントが通底していたのである。

 

「響け!ユーフォニアム」が拡張した「音楽アニメ」の思想

 

そんな流れを受けての、「リズと青い鳥」である。

基本的には本作は、TVシリーズ「響け!ユーフォニアム」(2015年)の第2期にあたる「響け!ユーフォニアム2」(2016年)で描かれた準レギュラーキャラ2人の関係にフィーチャーしたスピンオフで、山田尚子監督の最初の2本の映画に近い位置づけの企画だ。

TVシリーズ本編は、「AIR」(2005年)や「涼宮ハルヒの憂鬱」(2006年)などで京アニの屋台骨を支えてきた石原立也監督のもと、キャラクターデザインを池田晶子、音楽が松田彬人という座組みの中で、山田はシリーズ演出として参加している。

しかしながら、石原監督が「ユーフォ」の新作映画を別に準備することになる中で、プロットのふくらみから別エピソードを独立させて山田が監督することになったのが、本作の成立経緯のようである。(参考:#

ここで山田は、メインスタッフを映画「聲の形」組で固めながら、あえて「ユーフォ」のシリーズ名を排し、新作ファンタジーアニメのようにも思えるタイトルが主張しているように、本編からの独立性の高い完全オリジナル企画に近い意気込みで臨んでいる。

 

この挑戦ハードルの高さは、「ユーフォ」という作品が、いかに完成度の高いアニメシリーズだったかを体感したファンなら、容易に想像がつくことだろう。

武田綾乃による同名小説を原作にしたTVシリーズは、高校吹奏楽部の活動を通じての美少女キャラたちの関係性を丹念に描いた青春音楽劇だ。本作の外観上の特徴は、ユーフォニアム担当の主人公・黄前久美子とトランペット担当の高坂麗奈ら、「けいおん!」と同類型のキャラクター造形を持つ4人の新入部員を形式上のレギュラーに据え、理想化された部活空間でのハッピーなソフト百合的コミュニケーションを愛でるタイプの作品を擬装したことにある。

しかし実際に展開されたのは、モラトリアムをゆるく楽しむことでなく、新顧問の焚き付けで本気で全国大会を目指すことになったことによる、シビアな軋轢と葛藤のドラマであった。部活動への意気込みの温度差や、経験と才能の絶対的な格差、コンクール出場にまつわる揉めごとなど、若い原作者の実体験に基づく生々しい記憶がエピソードに盛り込まれ、鮮烈にアニメイトされたのである。

 

つまりは、先述した山田監督の劇場作の変遷と同様、「けいおん!」の時代であればノイズとして排除された現実性を、むしろカタルシスの源泉に変えながら、京アニが切り拓いた「日常系」フォーマットをさらに徹底的に内破したのが「ユーフォ」という作品であった。

このような作品性を可能にしたのは、ひとえに音楽の力と視聴者のリテラシーを信頼した、リアリスティックな吹奏楽シーンの演出にほかならない。序盤の頃のピッチやタイミングの噛み合わない未熟な合奏から、さまざまな葛藤のエピソードを経ての各自のパートの音楽性の研磨、そしてクライマックスとなるコンクールの晴れ舞台での各自が抱える想いの昇華まで、演奏そのものの成長にドラマツルギーを集約させていく手法が、本シリーズの最大の特徴である。

おそらく劇中の吹奏楽曲の良し悪しは、素人には演奏を聴いただけでは容易に判別しがたいところがあるだろう。しかし、聞きどころとなる編成楽器それぞれのクローズアップや、演奏者たちの微妙な表情変化、それに譜面への書き込みなど、おそらく実写では撮影・編集困難なさまざまなディテールを抜き繋げるアニメーションワークによって音楽性を巧みに可視化。きわめて説得力あるドラマとして多くの人々に体感せしむる、音楽体験そのものの拡張をもたらしたのである。

 

この達成は、「ハルヒダンス」ブームをもたらした「涼宮ハルヒの憂鬱」や「けいおん!」で切り拓かれ、多くのアイドルアニメ等でも踏襲されてきた手法の発展系であるのと同時に、それまでの「音楽アニメ」ではありえなかった本シリーズならではの主題表現の浮上をも意味していた。

それはすなわち、“断絶”の思想である。

 

「マクロス」シリーズや「けいおん!」をはじめとする多くの音楽アニメにあって、劇中楽曲の演奏シーンは基本的に、完成楽曲のサウンドトラックをMV的に流すことでクライマックスを盛り上げるための演出である。それはドラマの中では、作中の状況に登場人物と観客の情動をシンクロさせ、高揚と一体感を醸成する方向に機能する。

言うなれば、一般的な音楽アニメにおける「音楽」とは、“融和”のファンタジーを夢想させるための詐術であった。

 

対して、音楽ができあがっていくプロセスそのものをアニメイトした本シリーズの解像度にあっては、演奏者それぞれが抱える個々の違いと断絶こそが、容赦なく浮き彫りにされていく。部活を続けた者と続けなかった者、コンクールに参加できる者とできない者、パートソロを吹ける者とそうでない者。あるいは、仲よしの友達との関係を分かつパート練習や、決して共有できない過去をもたらす出身中学や学年の違い……。

断絶に次ぐ断絶を乗り越え、それぞれがみずからの情念と孤独に向き合った果ての一瞬の奇跡としてのみ――否、その渦中にあってなお融和しえない断絶を含んだものとして、クライマックスの一体感は立ち現れる。

 

そう。「ユーフォ」における音楽とは、“断絶”の現実性を受け入れ、物語の耽美へと昇華するための美学にほかならないのだ。

 

映画的・音楽的に重奏される“断絶”の主題

 

「リズと青い鳥」は、そんな「ユーフォ」の“断絶”の美学をきわめて高密度に結晶化しつつ、さらなる変奏を試みた映画である。

本作で描かれるのは、オーボエ担当の鎧塚みぞれとフルート担当の傘木希美の関係だ。2人は同じ中学出身の無二の親友だが、過去に希美は周囲の不満層に付き合い、みぞれに黙って吹奏楽部を集団退部した経験を持っている。TVシリーズ第2期の序盤は、そんな希美の復部とみぞれとの関係修復のエピソードを軸に展開されていた。かくして、互いを思ってのすれ違いを解消し、晴れて3年生に進級して同じ時を過ごしているはずの2人の関係に、本作は改めて光を当てていく。

 

作品タイトルの〈リズと青い鳥〉は、みぞれたちが高校生活最後に参加する吹奏楽コンクールの自由曲の題名である。これは同名の童話がモチーフという設定で、主人公リズと彼女が助けた青い小鳥(が変身する少女)との交歓と別離を描く物語が付随している。

これを作画様式の異なる劇中劇として差し挟みながら、みぞれと希美の“現実”の関係に対比させていくという構成が、映画としての本作の中核をなす仕掛けだ。リズと少女の声を、本職声優ではない本田望結が1人2役で担当していることも相まって、〈リズと青い鳥〉の劇中劇は、まるでスタジオジブリやポノックの若手監督が手がけそうな、最大公約数的な児童文学ファンタジーを擬態したもののようにも見える。

 

そして映画そのものも、こちらのファンタジータッチの劇中劇で幕を開ける。タイトル曲のメインモチーフに乗せて、リズが青い鳥に出会う物語の発端が、本作全体のファーストシーンだ。

そんなリズに重ね合わせるようにして、朝の登校中に青い鳥の羽根を拾ったみぞれの“現実”側へとシーンは移行。北宇治高校の校門前の階段で人待ち顔で座るみぞれのもとに、やがて希美が現れて2人は合流。音楽室で朝練するため、校舎内を連れ立って歩いていく。

この、ただ朝の挨拶を交わして一緒に歩いていくだけの冒頭シークエンスのアニメーションの中で、2人の関係性と作品のメインテーマは、ほとんど余すことなく語り尽くされていると言っても過言ではない。

 

みぞれの先に立ってリズミカルに闊歩し、方向転換では弧を描くようにターンする希美の特徴的な足つきと、置いて行かれまいと不安げについていくみぞれの足つきの、あまりにも能弁なカットバック。

2人の瞬間瞬間の所作にからみつくように同期する別々のメロディトラックを割りふり、どこかチグハグした対位法として編み上げていく立体的な劇伴。

廊下の窓を、劇中劇とリンクする明白な隠喩機能をもって横切っていく鳥たち。

映画的な記号と文法の粋を尽くした一連のシークエンスは、正しく音楽的な前奏となって、朝練での微妙に噛み合わない会話と試奏シーンに観客を導いていく。

 

親密なように見えて、みぞれの間合いを待たずに常に希美が話題を寸断しながら進めてしまう会話の噛み合わなさは、そのままメインモチーフを吹いてみる2人のフルートとオーボエの掛け合いの印象にも該当する。

このように、モラトリアムの調和の水面下に潜む“断絶”の主題が、この映画では映像と音響を神経質なまでに相乗させながら、さまざまなレイヤーで全編にわたって重奏されていく。

その手つきは徹底して非言語的な演出の力を駆使したものだが、音楽室での最初の試奏にからめ、あまりにも赤裸々なタイポグラフィが作品の本質を明示して、映画に向き合う人々の心の準備を整えさせるのである。

 

〈disjoint〉(※)―――と。

 

(※)「ばらばらになる。解体する」の意。また、数学用語「互いに素」の意味もあり、劇中の授業シーンでも教師の台詞で暗示的に登場する。

 

ファンタジーの唯一性を多義化する対位法

 

以上にたどったような本作の視聴覚演出には、聴覚障害とコミュニケーション不全のモチーフを表現したアンビエントな音響的挑戦など、「聲の形」からの連続性も見出すことができる。

言うなれば、拡張型「音楽アニメ」としての「ユーフォ」の世界観と、「聲の形」の「音響映画」性が合流するかたちで、「リズと青い鳥」という映画が成立しているのだとも言えるだろう。

 

以降も、楽曲世界をトレースするみぞれのアプローチとシンクロしながら、4つの楽章で構成される〈リズと青い鳥〉の劇中劇シーンが順次差し挟まれていくことになるが、音楽面でも対応する主題曲が劇伴として流され、観客は意識的・無意識的にみぞれたちが取り組んでいく楽曲を予習していく。

そこで焦点になるのは、一緒に暮らし始めた少女が実は自由に大空に飛び立てる青い鳥だったことに気づき、第3楽章の「愛ゆえ決断」をもって解き放つというリズの心情の流れだ。

この時のリズの気持ちを、希美に対してほとんど依存に近い偏愛を抱くみぞれは理解することができない。希美とのミニマルな関係以外の世界を想像できず、進路希望調査も白紙提出したみぞれが、いかに自己克服して演奏をものにしていけるか。

そんな「ユーフォ」らしいドラマツルギーが、映画の主旋律として浮き彫りになっていく。

 

音楽映画としての本作の白眉のひとつに、主旋律としてのみぞれと希美の関係描写にからんでいく、サブキャラクターたちの副旋律の妙をあげたい。

特に印象的なのが、みぞれと親密になろうと果敢にアタックしてくる、新1年生の剣崎梨々花の劇伴演出だ。彼女の登場シーンで反復される木管の愛らしいメロディは、幼さを強調した所作や気分の流れと逐一呼応しながら、劇中劇の小鳥の存在感にも重なるキャラクター性を描き出す。

こうしたオペラやミュージカルのそれに近い劇伴運用の仕方は、「ユーフォ」のTVシリーズ本編では見かけなかった要素だ。

 

あるいは、本作では脇役でありながら、戯れにトランペットとユーフォニアムで第3楽章の焦点のパートを自分たちなりに吹き合わせてみせる、麗奈・久美子コンビの風格。いろいろなものを乗り越え、作品世界の屋台骨を作ってきた2人の“主人公力”をキャラクタライズした変則的な試奏もまた、TVシリーズを見守ってきた「ユーフォ」ファンたちにとっては、掛け値なしの感慨とドラマ的な説得力をもって伝わることだろう。

 

これら下級生たちの副旋律は、ドラマを動かす直接の要因になるわけではないが、みぞれが思い込む〈リズと青い鳥〉の固定した見立て方が唯一の解釈ではないことを示唆し、ある気づきによって大きく転換していく終盤展開への予兆になっている。

言うなれば、複数のメロディラインをアンサンブルする音楽的な対位法の積み重ねが、キャスティングの意図も含めた映画的な構成の仕掛けと結びつくことで、みぞれと希美の〈disjoint〉に、ある昇華の道筋が見出されていくのである。

映像と音響の相乗を神がかり的な域にまで突き詰めた、クライマックスの合奏シーンから冒頭シーンを再転調するラストへの流れは、なるべく多くの人に劇場で体験してほしいと、切に願う。

 

「新世紀エヴァンゲリオン」の「人類補完計画」以来、この四半世紀ほどの日本アニメの想像力は、おそらくは現実社会のコミュニケーション環境の全面化と成長ヴィジョンの喪失の反作用として、独我論的な“融和”のファンタジーへの自閉を志向する需要にとらわれ続けてきた。

しかし、一億総中流的な幻想の残滓(ざんし)でもある“融和”の同調圧力を拒絶し、“断絶”の現実性をミニマムな成熟の回路として再発見する道筋を、本作はあくまでも映画的なものと音楽的なものの技法的な突き詰めの帰結の中で見出した。

 

もはやファンタジーで否認することさえままならない衰退と分断の現実を、それでも美的な経験として生きること。だからこそ得られる刹那の交歓を噛みしめることで、“外”に踏み出す想像力を取り戻すこと。

そんな当たり前に回帰する現代アニメの最新の美意識を、「リズと青い鳥」という珠玉の映画は、見事に結晶化してみせたのである。

(つづく)

 

<中川大地プロフィール>

編集者、評論家。

1974年東京都墨田区向島生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科博士後期課程単位取得後退学。ゲーム、アニメ、ドラマ等をホームに、日本思想や都市論、人類学、情報技術等を渉猟して現実と虚構を架橋する各種評論等を執筆。カルチャー批評誌「PLANETS」副編集長。著書に『東京スカイツリー論』『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』。共著・編著に『思想地図vol.4』(NHK出版)、『あまちゃんメモリーズ』(PLANETS・文藝春秋)など。村上隆監督のアニメ『6HP』に脚本・シリーズ構成で参加。