ホビー業界インサイド第19回:MAX渡辺が語る「マックスファクトリーの30年」、そして「僕が本当に作りたかったもの」

株式会社マックスファクトリーといえば、関節が可動する塗装済み完成品フィギュア“figma”シリーズをはじめ、「パシフィック・リム」のロボットや1/20スケールの美少女キャラをプラモデルキットにする「PLAMAXシリーズ」を積極的に展開する、老舗のホビーメーカーだ。
そのマックスファクトリーが、今年で創立30周年を迎えた。社長のMAX渡辺さんに、30年前の創業時のお話、そしてこの30年の間、「何を理想に進んできたのか」、ざっくばらんに話していただいた。

「ホビーメーカーになる!」……その決意を支えたもの

──渡辺さんは、月刊ホビージャパン別冊「How to build GUNDAM 2」(1982年)で、模型ライターとしてデビューしたんでしたよね?

渡辺 「商業誌に作品が掲載された」という意味では、そうなります。だけど、その前年に出た「How to build GUNDAM」(1981年)の読者投稿ページに、作品が載ってるんですよ。1/60ザクを改造した1/60グフですね。このグフを見た小田雅弘さん(元ストリームベース所属のプロモデラー)が「渡辺くん、やってみない?」と声をかけてくれたんです。そうして依頼されて作った初の作品が、「1/60機雷散布ポッド付ザク」ですね。

──今でこそ、ガンプラでザクの腰のスカートが分割可動するって当たり前になっていますけど、渡辺さんの機雷散布ポッド付ザクが最初でしたね。

渡辺 「スカートが動かないなら、蝶番(ちょうつがい)をつけて動かしてしまえ」という、子供みたいな発想ですけど、僕が初めてのはずです。この可動システムが、後に「装甲騎兵ボトムズ」のスコープドッグに使われた……と聞いています。
僕がライターになった当時、ガンダムは花形だったので、売れっ子のストリームベースの担当だったんです。僕はガンダム以外のもの、「超時空要塞マクロス」を精力的に作っていました。その後が「ボトムズ」ですね。とにかく僕は本に載りたい、ネタが欲しくてしかたないから、編集部に入りびたるわけです。模型ライターとしてのランクをじわじわ上げていきたい、という意識は持っていました。

──すると、当初は模型雑誌に載ることが目的だったんですか?

渡辺 目的というか、塗装でも工作でも抜きん出ていた小田雅弘さんに憧れていたんです。しかし、模型ライターを続けていても、食えないことはわかっていました。「ライターを続けながら、ホビー業界で食っていくにはどうしたらいいんだろう」と考えたとき、「模型メーカーになる」という選択肢が出てきたわけです。ちょうど、ガレージキットが盛んになってきた時期でもありますからね。原型も自分で作って、社長もやって、ライターもやるという道を選びました。

──1987年の4月に、有限会社マックスファクトリーを設立しています。模型ライターとしてデビューしてから、5年後に法人化しているんですね。

渡辺 その5年の間に、仲間を集めてマックスファクトリーを名乗って、活動はしていたんです。5年たった頃、大手の版元さんから「今後は個人に版権をおろすのが難しくなるから、早く会社をつくりなよ」「法人にすれば、版権を通りやすくなるから」とアドバイスされて、会社をつくる決意を固めたんです。

──当時、有限会社をつくろうとしたら、300万円ほど必要でしたよね。

渡辺 大変でしたね(笑)。自分でも少し出したけど、人に借金をして。

──借金してでも、メーカーになりたかったんですね?

渡辺 おそらく、「メーカーになりたい」というより「ホビー業界にい続けたい」気持ちが強かったような気がします。