アニメ業界ウォッチング第22回:“キャラクター”として認めてもらえるCGメカを作る、動かす! オレンジ代表・井野元英二インタビュー!

現在でこそ、3DCGは2Dアニメーションに欠かせない表現となっているが、かつてはセル画とCGの相性は悪く、マイナスイメージで見られることがもっぱらであった。

そんな嫌われものだったCGに2コマ打ち、3コマ打ちといった作画的な動きを取り入れ、トゥーンシェイドでセル画のような質感を多用したのが、有限会社オレンジ代表の井野元英二さん。井野元さんの評価を決定づけたのが「ゾイド –ZOIDS」(1999年)、そして「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」(2002年)のタチコマである。今年完結をむかえた「コードギアス 亡国のアキト」のすさまじい戦闘シーンを担当したのもオレンジで、CGディレクターは井野元さんだ。

スタート当初は、たったひとりでCGアニメを作っていたという井野元さんに、オレンジ設立までの経緯、オレンジのこれからについてお話をうかがった。

イラストレーターとしての出発と、CG会社設立まで

──もともと井野元さんは、漫画家になろうとしていたと聞きましたが?

井野元 そうです、小学~中学まで、ずっと漫画を描いていました。高校の頃に描いた4コマ漫画が「少年サンデー」に佳作で入選したりもしました。大学卒業後、一度は企業に就職したものの、「やはり漫画を描きたい」と思って、すぐ辞めました。 その当時は「少年ジャンプ」に応募していて、担当者が付くことになりまして、それを機会に上京してきたんです。担当者がつくと、漫画家のアシスタントなどの小さな仕事を紹介してもらえるんですが、やはり経済的にも才能的にも、苦しくなってしまいました。「どうしようかなあ」と思い悩んでいるとき、Photoshopのバージョン1が発売されたんです。そのPhotoshopを買い、イラストの仕事を紹介してくれるマネジメント会社に登録しました。イラストなら、それこそ何でも描きましたよ。森高千里の足だとか(笑)。 そのうち、ゲーム会社からムービーの仕事が入ってくるようになったんです。しかし、Macはアニメーションの機能が弱くて、限界を感じていました。当時好きだったディズニーの「アラジン」で、「Alias」というソフトを使っていたので、それを買おう……と言っても、当時はアニメーション用のソフトを揃えるだけで数百万円はかかりましたから、崖から飛びおりるような気持ちでしたね。「もう後戻りはできない、CGで食っていこう」と決めて、それがアニメーションの仕事をはじめたキッカケですね。

──その頃は、ゲームのムービーの仕事だけだったんですか?

井野元 「ウルトラマンティガ」(1996年)、「ウルトラマンダイナ」(1997年)の仕事が入ってきました。がんばってCGで変身シーンを作ったのですが、すぐ実写に差しかえられてしまいました(笑)。だけど、特撮番組でもCGを使いはじめた過渡期だったんですね。 同じ頃、プレイステーション2などのオープニングムービーの仕事が、CG屋の中では花形のように扱われていました。「フルCGで、映画を1本作れるんじゃないのか」という雰囲気があったのですが、自分でオープニングムービーの仕事をしていて、「どうも違うな……」と感じていました。というのも、ゲームのムービーは、演出の訓練を積んでいないCG屋が、見よう見まねで絵コンテを切っていたからです。 そのうち、「ゾイド -ZOIDS-」(1999年)の仕事が回ってきました。自分は絵を描いていたくらいなので、アニメの仕事はとても面白い。それから、どんどんアニメの仕事に傾倒していったんです。

──その頃は、おひとりで仕事されていたんですか?

井野元 ええ、当時はフリーランスでした。その後、「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」(2002年)の話が来まして、タチコマのみ、ひとりで担当しました。

──有限会社オレンジをつくられたのは、その頃ですか?

井野元 「攻殻~」のあと、サテライト制作の「創聖のアクエリオン」(2005年)に誘われたとき、プロデューサーに「法人化するので、予算を増やしてください」とお願いしました。さすがにもう、ひとりで仕事するには限界がある(笑)。それでオレンジを設立したのですが、僕を入れても3人しかいない。「アクエリオン」は、サテライトさんとウチともうもうひとつの会社で、話数ごとに交代で担当していました。サイライトさんの担当話数では10名ぐらい、スタッフ名がクレジットされていました。だけど、ウチの担当話数のときは、3名しかクレジットされていない(笑)。 それでも、「絵を描いてメシを食う」夢には半分ぐらい近づけたわけで、アニメの仕事に絞っていったんです。