【実写化映画、大検証!】第6回「スーパーマリオ 魔界帝国の女神」──エンタメの黒船・テレビゲームをハリウッドはどう映画化したのか? 映画最新作公開前に観直してみた!

CGアニメ映画「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」がついに日本でも封切られる。ヒゲの配管工・マリオが大冒険を繰り広げるゲーム「スーパーマリオブラザーズ」を題材とした作品だ。

海外では日本に先行して公開されており、東宝東和によれば全世界での興行収入が1000億円を突破したという(参考記事:4Gamer.net『映画「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」全世界での興行収入が1000億円を突破。全米では3週連続ナンバーワンを記録』# )から、いかに「スーパーマリオブラザーズ」の映画が待ち望まれていたかがわかる。

ただ、実は「スーパーマリオブラザーズ」の映画化は初めてではなく、ちょうど30年前の1993年に実写映画「スーパーマリオ 魔界帝国の女神」が公開されている。陽気なはずのマリオが「奴らの骨を全部折ってから殺してやる!」と吠え猛り、原作ゲームではかわいらしかった「キノコ族」は粘液をしたたらせるリアルなキノコとして表現され、キュートなヨッシーはリアルな恐竜として登場。ピーチ姫も「?」ブロックも存在しないという、ファンの誰もが予想できなかったであろう実写化だ。本作は「マリオが、ハリウッドを本気にさせちゃった」というコピーが有名だが、事情を知るとこのコピーに別の意味も垣間見えてくるのである。

 

「スーパーマリオ 魔界帝国の女神」の舞台は、現代のアメリカ合衆国の都市ニューヨークの一角に位置する区画・ブルックリン。マリオとルイージの兄弟は配管工の仕事をして暮らしていた。そんなある日、ルイージは化石の研究をする女性・デイジーと知り合ってひと目惚れ。マリオのアドバイスもあってルイージとデイジーはいい雰囲気になるが、幸せは長く続かなかった。デイジーが謎の恐竜人に捕まり、地下へと連れ去られてしまったのだ。ルイージとマリオが後を追うと、そこには恐竜から進化した人間が暮らす恐竜帝国の都市・ダイノハッタンが広がっていた。

恐竜帝国は独裁者クッパが圧政を敷いており、現状を揶揄した歌を歌っただけで投獄されるディストピア。そこら中が謎の「キノコ菌」に浸蝕されており、資源も食料もないお先真っ暗の状態だ。クッパは豊かな地上世界を闊歩する哺乳類を激しく憎み、生物を退化させる「退化銃」を武器に侵略を企む。隔絶された恐竜帝国と地上世界を繋ぐためには、デイジーが持つペンダントが必要であり、これを手に入れるためにクッパは彼女をさらったのだ。かくしてマリオとルイージはデイジーを取り戻すため、クッパに立ち向かうのだった。

 

リアルタイムでの上映時、「スーパーマリオブラザーズ」の映画を見に行ったはずが「ゲッターロボ」の恐竜帝国みたいな設定が出てきて面食らった人も多いのではないだろうか。今回執筆のために改めて見直してみたら、やはり「ゲッターロボ」のような設定で面食らってしまった。(映画「スーパーマリオブラザーズ」の)恐竜帝国の恐竜人は恐竜から独自の進化を遂げたとされているものの、見た目は人間そっくり。全身ウロコまみれとか指がかぎ爪とかいったことはなく、“顔にタトゥーっぽい模様が入った人もいる”くらいで、メイク班にやさしい設定だ。彼らが築いた都市も人間のものと大差ない。違いは「全体的に汚れている」「焼いたトカゲを挟んだパンを売っている」というくらいで、こちらも大道具班にやさしい設定である。看板にはアルファベットが使われているし、人々とも英語で意志疎通が可能(ちなみに、街にはタトゥーショップの看板もある。前述した顔の模様も、恐竜人としての特性かタトゥーなのかは不明)。

もちろん、ゲームでおなじみの「?」ブロックや緑の土管などは出てこようはずもない。何の予備知識もない人に、この恐竜帝国の写真を見せたとしても、これが「スーパーマリオブラザーズ」の映画であることにはなかなか気付けないのではないだろうか。

 

マリオたちのキャラクター性や服装にも、解釈違いが起こっている。原作では陽気なマリオだが、本作のマリオはちょっとクセのある人物として描かれている。血縁関係にないルイージを引き取って立派に育てたあたり情は厚いようだが、ルイージがデイジーにひと目惚れしたと見るや、アタックしろしろとけしかけるデリカシーの欠如に加え、ミネラルウォーター代の3ドルを惜しんで「水道水ならタダだろう」と毒づき、面白くもないジョークを飛ばすというオジサン気質が強く出ている。

いっぽうのルイージは大変にシャイ。毎日ゲームをしていて、オカルトものの番組を好んでいるところにオタク気質も見え隠れするが、いざという時には行動力を発揮する好青年だ。 ルイージはともかくとして、マリオの人物像は原作ゲームと大きくかけ離れているといえるだろう。彼らが着ているのは、トレードマークであるオーバーオールではなく普通の服。マリオはかたくなに赤メインの服を着ないし、ルイージも緑を着ない。当時の宣伝でもおなじみだった、原作再現のオーバーオール姿になるのは、上映時間も2/3を越えたあたりのこと。それまではマリオ感もルイージ感も薄い2人組が活躍することになる。 さて、ここまで読んで「ピーチ姫はいつ出てくるの?」と首をひねった人もいると思う。残念ながら、本作にピーチ姫は登場せず、マリオにはダニエラという彼女がいる。ダニエラのミドルネームは「ポリーン」という「ドンキーコング」にちなんだ名ではあるものの、ピーチ姫も見たかったという人は少なくないだろう。

 

あまりにも違いすぎるヨッシーとキノコの扱い

恐竜帝国は無法の巷。デイジーが2人のもとに残したペンダントはまず老婆の強盗に盗まれた後、老婆から巨体の女性ビッグ・バーサが強奪した。キャラクターたちのパンク風な服装も相まって、まるで「北斗の拳」のような弱肉強食だ。地元警察に捕まったマリオとルイージは留置所に収監されるも、パトカーを奪って逃走。追っ手を同士討ちさせ、見事自由の身となる。牢獄で犯罪者たちが雄叫びを上げ、カーチェイスが展開するシーンは、「スーパーマリオブラザーズ」というよりは犯罪をテーマとしたゲーム「グランド・セフト・オート(GTA)」のほうに近くも見える。パトカーもボンネットにエンジンむき出し、フロントにはブルドーザーのようなブレードが付いた威嚇的デザインで、これが戦うさまは世紀末世界で車がバトルする「マッドマックス」か「ヴィジランテ8」にでも出てきそうな光景。本作なりの「マリオカート」再現としてもバイオレンス味が濃すぎる。

このように、本作は「スーパーマリオブラザーズ」世界を再現するというよりは、ハリウッド映画文法に寄せたという感がある。マリオがデイジーを拉致した恐竜人を「奴らの骨を全部折ってから殺してやる!」と罵るあたりは、マリオというよりは“典型的なハリウッド映画のヒーロー”である。クッパも情婦のレナと風呂に浸かってご満悦な肉食系キャラクターとして描かれており、こちらも“典型的なハリウッド映画の悪役”と言えるだろう。

完全に別物ならまだ割り切れるが、たまに原作再現が存在しているから困りものだ。ビッグ・バーサは大ジャンプできるメカシューズ、警官たちは火球を放つ銃を装備しており、こうした要素は本作が「スーパーマリオブラザーズ」の映画化であることを忘れさせてくれない。

なかでも強い印象を残すのが、ヨッシーとキノコに関するアレンジだ。原作のヨッシーはマリオの仲間であり、恐竜のような生き物である。見た目にかわいらしく、長い舌でフルーツや敵を呑み込むさまが頼もしいもコミカル。いっぽう本作のヨッシーはクッパのペットとして登場し、デイジーと心を通わせることになる。 デイジーがレナに襲われた際、ヨッシーはレナの足首に舌をからめて転ばせることでデイジーを救うというシーンがある。デイジーに対するヨッシーの思いがひしひしと伝わってくる心暖まるシーンではあるが、ヨッシーの見た目がガチの小型恐竜であるのに加え、レナが引きずられる際の生々しい悲鳴も相まって、まるでホラー映画のよう。リアルタイム上映時「今後ゲームでヨッシーさんを乗り捨てたり、粗末に扱ったりするのは止めよう」と肝に銘じたことが、改めて思い出される。

そして、本作のキノコは主に「キノコ菌」として表現される。原作の「スーパーマリオブラザーズ」では、クッパにさらわれたピーチ姫を助けるため、兄弟が「キノコ王国」を冒険する。「キノコ王国」は青い空と澄んだ海が広がる風光明媚な土地で、そこにはマシュマロのような帽子を被った温和な「キノコ族」が平和に暮らしているのだ。また、マリオがスーパーキノコを取って巨大化するのもシリーズを象徴するシーンのひとつだろう。

いっぽう本作におけるキノコは、恐竜帝国に広がっていく「キノコ菌」であり、街のあちこちを包むネバネバした薄膜として表現されている。「キノコ菌」はクッパによって退化させられた人々であり、指導者であったキノコ王は卵状の塊となって生き長らえている。この“卵”が粘液をまとわりつかせながら現れる姿は、まるで映画「エイリアン」のようだ。「スーパーマリオブラザーズ」の取扱説明書に“「キノコ王国」に点在するブロックは、クッパの魔法で市民が姿を変えられたものである(外部リンク 任天堂公式サイト:# )”という設定が記されているが、これを再現したのが恐竜帝国のあちこちで増殖する「キノコ菌」というわけだ。

しかしながら、映画におけるキノコの扱いは原作とあまりに違っている。キノコ王の“卵”を見たマリオたちは明らかに不気味がっているし、恐竜帝国の警察では「キノコ菌」を駆除すべく徹底的な消毒を行っている。原作で穏和だった「キノコ族」も、本作では「知らない間に浸食してくる不気味な存在」として扱われているわけだ。もちろん、スーパーキノコは出てこないし、巨大化もしないのである。

1985年の発表から本作までの8年間、「スーパーマリオブラザーズ」の世界は一貫してファンタジックなものとして描かれており、任天堂がシリーズを大切に育ててきたことは想像に難くない。そんな中、不気味な粘液に包まれた球体として描かれるキノコ王を見て、関係者がどう思ったかは察するにあまりあるものがある。「スーパーマリオブラザーズ」の映画化はこの後30年間途絶えたわけだが、その理由はハリウッドにおけるこうした扱いと無関係ではないのではないだろうか。

 

ハリウッド風にアレンジされたマリオのキャラクター

映画終盤、ペンダントとデイジーの争奪戦もクライマックスに突入する。クッパは撃った相手を退化させる「退化銃」を量産して地上へ侵攻する準備を整えてしまった。世界の危機に、マリオとルイージは原作再現のオーバーオールに着替え、クッパの本拠地に突入する。あちこちで「キノコ菌」に助けられつつ、クッパの手下たちを翻弄するマリオ兄弟。ルイージは「キノコが話しかけてくる!」と不思議な感応能力を見せるが、なぜそんなパワーを持っているかについて明確な説明はなく、別の“キノコ”をキメているかのようだ。

ついにクッパも銃を片手にみずから出陣。街で石炭を運んでいるらしいカゴに乗り込み、マリオに火球を放つ。もうゲームとは完全に別物だが、カゴの形がクッパの乗り物「クッパクラウン」に、「退化銃」がスーパーファミコン用バズーカ型周辺機器・スーパースコープに似ていて、「スーパーマリオブラザーズ」の映画化であることをなかなか忘れさせてくれない。

マリオもキノコのカサで「退化銃」を防ぐなど健闘するが、クッパの有利は揺るがない。まさに絶体絶命の危機だが、クッパに止めを刺したのは、なんと原作にも登場する歩く爆弾・ボム兵だった。

「キノコ菌」がルイージに託したボム兵は、クッパに忍びよって大爆発。世界は救われたのだった。このボム兵は原作そのままのデザインで、ゼンマイ仕掛けでテクテク歩く姿がかわいらしい。台詞では「Bob-omb」とボム兵の英名で呼ばれているが、なぜかDVD版の字幕では「ボー爆弾」という表記。「この映画は『スーパーマリオブラザーズ』と別物なのだ」という粋な計らいなのかどうかは不明だ。

 

このように「スーパーマリオ 魔界帝国の女神」には、キャラクター像から舞台設定まで、さまざまな点において解釈違いが発生している。全体的に現実的かつハリウッド映画的な解釈がなされており、原作ゲームを知る人であれば違和感を覚えることもあるだろう。

なかでも特筆すべきは、ディスコで女性をだますマリオの姿だ。ビッグ・バーサに奪われたペンダントを取り返すべく、マリオは「俺の魅力で落とす!」とアプローチを試みる。ビッグ・バーサから殴られ拒否されるも「もう一度殴ってくれ」と食い下がり、ついにはチークタイムに持ち込むのである。いい感じに踊る2人だが、マリオの目的は最初からペンダントのみ。ビッグ・バーサの胸元からペンダントを奪うと、マリオは姿を消すのだった。

彼女であるダニエラとの関係も良好だし、シャイなルイージにちょっとアドバイスすればデイジーとうまくいく……といった具合で、なかなかの女たらしだ。ビッグ・バーサに対しては最初から騙す心づもりで近づいているが、彼女の側は本気でマリオに好意を寄せたようだ。マリオがクッパの手下に追い詰められた際は、メカシューズを渡して助けているのだから、けなげにもかわいそうにも見えてくる。

また、ダニエラに関しては、恐竜帝国に拉致されているのを忘れていたようで、周囲から指摘されてやっと思い出したような描写もされている。

結果として本作におけるマリオは、計算高く女性を利用するジゴロ的人物とも受け取れる人物像になっており、ゲームからイメージされるマリオとは大きく違ったものになっているのだ。

 

新興メディア・テレビゲームと伝統的ディア・映画の衝突

「スーパーマリオ 魔界帝国の女神」では、「スーパーマリオブラザーズ」の世界をハリウッド映画の文法に近づける、言い換えればファンタジックな世界を何が何でも“現実的に解釈”しようとしている感がある。たとえば、マリオのトレードマークである大ジャンプを見てみよう。ゲームのような大ジャンプは現実に不可能なので、メカシューズの能力として解釈する→現実の地球にはそんなメカシューズは存在しないので、恐竜帝国のアイテムとして登場させる→地上からきたマリオたちが恐竜帝国のアイテムを入手するのは現実的ではないので、恐竜帝国の住人(ビッグ・バーサ)から託される形にする→託されるには相手との関係性が深まらないと現実的ではないので、物語の後半になってしまう→結果としてマリオが大ジャンプするシーンがほとんど出てこない……といった具合だ。これは個人的な意見だが、ハリウッド流の“現実的な解釈”と原作のギャップを笑いに転化しようとしている節さえ見られなくもない。少したとえが古くなって申し訳ないが、昔の二次創作シーンで流行した「リアル系サザエさん(サザエさん一家をリアルな世界に放り込み、生活に疲れた主婦として描くなど、世界観のギャップを笑いに転化する)」的な笑いを意図しているようにも感じられるのだ。 なぜこうなったのか? アメリカの情報誌「バラエティ」は本作の監督であるロッキー・モートン氏にインタビューを行っているが、その中に興味深い一節がある。

“監督は、この映画が1990年代のビデオゲームに対する否定的な文化的態度に振り回されたと考えている。「アメリカでは、ビデオゲームが青少年を汚染し、脳や食生活に影響を及ぼす、邪悪な怪物のようなものだと思われていた」「ハリウッドが『ビデオゲームを映画にしよう』と言い出したことが、ラクダの背を折る藁(物事が耐えられる限度を超えて爆発することを意味する、英語のことわざ)となり、ビデオゲームに対する人々の怨念の水門を開いてしまった。『スーパーマリオブラザーズ』の映画はその最前線に立ち、非難を一身に浴びた」”(参考記事:# )。

この記事を踏まえたうえで思い返すと、本作の疑問点が解消される感がある。作中では、広がる「キノコ菌」に対してマリオやクッパが嫌悪感を示すシーンがある。これは当時のハリウッドやオトナたちがゲームに対して示した反応そのものであると考えると納得がいく。彼らにはゲームが「キノコ菌」の如く自分たちの世界を浸蝕するものに見えたのだろう。新しいものには反発が付きものではあるが、それにしても強烈な反応である。牽強付会(けんきょうふかい)のそしりは免れないが、「マリオが、ハリウッドを本気にさせちゃった」という、当時理解できなかったコピーも納得がいく。同じ娯楽産業として、可処分所得を取り合うライバルとして、ビデオゲームを本気でライバル視したうえでの本作であるようにも見えなくもないのだ。

 

この後「スーパーマリオブラザーズ」の映画化は30年に渡って途絶えたが、その間も任天堂はマリオシリーズのゲームを作り続け、世界観を崩すことを決してしなかった。そうした中でも冒険は行われている。2017年の「スーパーマリオ オデッセイ」では、ニューヨークを思わせる「ニュードンク・シティ」が登場。従来作よりも少しフォトリアル(写実的)に寄った描写がされる大都会でマリオが飛び回る様には「マリオの映画があるとすれば、こんな感じがいいな」とファンを納得させる力がある(奇しくも、ニューヨーク風の都市でマリオが活躍するというアウトラインは「スーパーマリオ 魔界帝国の女神」と共通である)。

そして、この30年で時代も変わった。ゲームに親しんだ世代が大人になり、1990年代のような偏見も薄くなっている。今やマリオが大ジャンプしても、「キノコ王国」に「?」のブロックが存在していても、「現実的でない」などと人はいないだろう。これは、30年もの間、高品質かつあらゆる年代層が楽しめるマリオシリーズを任天堂が作り続けてきた成果と言える。

そして満を持しての「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」だ。本作は実写ではなくCGアニメ映画として作られ、任天堂も共同制作としてイルミネーションとともに名を連ねている。この体制には「スーパーマリオ 魔界帝国の女神」からの学びもあることだろう。

そうした意味において「スーパーマリオ 魔界帝国の女神」は、ビデオゲーム史的にも意味のある映画化であったと言える。任天堂自身が制作に携わり、ゲームへの偏見が消えた時代に公開される「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」がどのようなものになるのか、今から楽しみだ。

 

(文/箭本進一)