【実写化映画、大検証!】第1回「DRAGONBALL EVOLUTION」──実写版・孫悟空はベジータ並みの残虐性、フリーザ並みの復讐心、亀仙人並みの色好みを兼ね備えた最強キャラだった!

空前のアニメブームを迎えている令和・ニッポン。実写映画の世界でも、アニメ原作、漫画原作モノが以前にもまして存在感を増しつつある。

そのいっぽうで、アニメ原作、漫画原作モノ実写映画というと、「あ~、実写化ね……」というある種の残念な印象を抱いている方も多いのではないだろうか。

しかし! 本当にアニメ、漫画を原作とする実写映画はガッカリなものばかりなのだろうか!? 周りの意見に流されて、ろくに本編を観ないままイメージだけでネタにしてないのかい!?

 

ということで、全3回をかけて、過去に物議を醸したアニメや、漫画原作モノ実写映画を再評価してみたい。

 

第1回は、現在、映画最新作「ドラゴンボール超 スーパーヒーロー」が大ヒット中の「ドラゴンボール」。その実写版「DRAGONBALL EVOLUTION(ドラゴンボール・エボリューション)」(2009年制作/アメリカ)だ!

 

第1回 DRAGONBALL EVOLUTION

 

鳥山明さんの国民的バトルマンガ「ドラゴンボール」。その人気ゆえ、過去にさまざまなメディアミックスが行われてきたが、そのひとつが2009年に公開された実写映画「DRAGONBALL EVOLUTION」である。日本マンガの多くと同様「ドラゴンボール」も映像化の難しい作品であり、どう実写化するのかに注目が集まった。

 

「ドラゴンボール」の物語は、主人公・孫悟空の少年時代と青年時代に大別できる。少年時代は、7つ集めると何でも願いがかなう秘宝・ドラゴンボールを求めて悟空が世界を巡る内容で、冒険ものとしての側面が強い。青年時代以降は、強大な力を持つ宇宙人や人造人間、神すら弑する魔人といった超強敵を相手取って戦う、バトルものの要素が大きくなってくる。

 

どちらを実写化するにしろ、物語が長いうえに求められる特撮のスケールも大きく、非常に困難であることは想像に難くない。特に青年時代では、悟空と敵が空中を自由自在に飛び回り、気弾や打撃を応酬しつつ、惑星をも破壊するバトルが展開する。2018年のアニメ映画「ドラゴンボール超 ブロリー」では、鬼気迫るクオリティで縦横無尽に動き回る戦いが実現されているが、「ドラゴンボール」を映像化するということは、それだけ作り手の熱意とマンパワーが必要であるということ。要するに、熱い人をたくさん集めないといけないので、とても大変ということだ。

 

「DRAGONBALL EVOLUTION」の公開時、亀仙人が甲羅を背負っていない、悟空が筋斗雲に乗らないし声が野沢雅子じゃないなど、原作と違う点がいろいろと指摘された。台湾で作られた実写版「新七龍珠(ドラゴンセブンボール)」(当然、無許可)のほうがまだ原作に準拠しているとの声すらあった。

しかし、本作において最も大きなポイントのひとつは、キャラクターに対する“解釈違い”ではないかと感じられる。解釈違いとは、キャラクターの人物像に対し、送り手と受け手が抱く像が異なっていることを指す言葉だ。そして「DRAGONBALL EVOLUTION」においては、悟空の人物像について、この解釈違いが起こっている。原作における少年時代の悟空は、強さと冒険を求めてまっしぐらな快男児。いっぽう「DRAGONBALL EVOLUTION」の悟空は、亀仙人のような好色と最初期ベジータ並みの邪悪さ、フリーザ様級の復讐心をあわせ持つ、メンタルの怪物なのだ。

 

「DRAGONBALL EVOLUTION」では、高校3年生(17~18歳)の悟空がピッコロ大魔王に祖父・悟飯を殺され、ドラゴンボールを探す旅に出る。

本作の悟空は、悟飯との拳法修行のかたわら都会の高校に通ってはいるが、周囲から浮いた存在だ。悟飯から教えられた迷信じみた伝承(過去の地球におけるピッコロ大魔王と戦士たちの戦い)を信じるうえ、はずかしめられても悟飯の戒めを守って反撃しないからで、生徒たちからはすっかりナメられている。憧れのクラスメイト・チチとの距離も遠く、授業中に彼女を盗み見ては妄想する日々を送っていた。

悟空は、「気の力」を使ってチチを助けたことをきっかけに、彼女の誕生日パーティーに招待される。チチも「気の力」のことを知っており,悟空に親しみを感じたのだ。誕生日パーティーの会場でも悟空ははずかしめられるが、ついに悟飯の戒めを破り、いじめっ子たちを拳法の体さばきで自滅させる。チチと急接近した悟空だが、変事を感じ取ってロマンスを中断。あわてて帰宅すると、家はボロボロ。悟飯もピッコロ大魔王に襲われており、間もなく息を引き取った。そう、悟飯がこれまで語っていた伝承は真実だったのだ。悟空はピッコロ大魔王を封印すべく、修行とドラゴンボール探しの旅に出るのだった。

 

 

原作における少年時代の悟空は、下心や邪心なく女性に接する快男児、というのは先述の通り。田舎で祖父と暮らしていたゆえに男女の区別すら定かでないという事情もあるが、その真っ直ぐさと気のきかなさが笑いと感情移入を誘う。

いっぽう、「DRAGONBALL EVOLUTION」の悟空は等身大の高校生である。学業より女の子にうつつを抜かし、祖父が用意してくれた誕生日パーティーをすっぽかし、家を抜け出して彼女のもとへと向かう。パーティー会場では直接手を下さずにいじめられっ子の自滅を誘い、その際にはわざと彼の車を巻き込んでボロボロにする。キャラクターとしての行動原理や人情の優先順位が原作とは大きく異なっており、一般的なティーンとしての側面が強く感じられるものとなっている。初期「ドラゴンボール」がおとぎ話のような冒険譚的な側面を持つのに対し、「DRAGONBALL EVOLUTION」はティーンにフォーカスした作品といえるだろう。

本作の悟空は、スクールカーストにおけるナード(変人、オタク)枠である。そんな彼は「他人とは違った存在である自分」であり、「世界に隠された真実(ピッコロ大魔王と戦士たちの戦い)を自分だけが知っている」。そして「自分には秘められた力があるが、みだりに振るうことを禁じられており、その価値は余人に理解されない」。しかし、「自分に秘められた力をヒロインだけが理解しており、この力をきっかけに距離が縮まる」「自分が秘められた力を解放すると、体育会系のいじめっ子もひとたまりもなく、スクールカーストなどものともしない」。物語を構成するパーツをあげていくと、なるほどティーン向け娯楽の王道をいく設定であることがわかる。

逆にいえばティーン向け娯楽の王道であり、原作初期が「元気な少年が世界中を駆け巡って大冒険する」普遍的なテーマを描くのとは対照的だ。

 

さて、「ドラゴンボール」のファンであれば、「DRAGONBALL EVOLUTION」の悟空で描かれたテーマは、すでにもっとスマートな形で昇華されていることに気づいているはずだ。そう、原作における悟空の息子・悟飯の学生時代である。この頃の悟飯は一般の学校に通っており、周囲に力を隠している。周囲からは変わった人扱いではあるものの、かつてセルと戦って世界を救った英雄であり、いざとなれば空も飛べるし、かめはめ波だって放てる。時には謎のヒーロー「グレートサイヤマン」に扮して悪を懲らしめているが、その秘密を探ろうとするクラスメイトのビーデルさんにちょっと困っているという状態だ。

こちらにも、前述したティーン向け娯楽の王道が詰まっているが、爽やかなコミカルさがあり、悟飯に感情移入できる。こんな学生時代を送りたかった、こんな風になりたかった憧れの存在が悟飯といえるだろう。

 

このように、原作と「DRAGONBALL EVOLUTION」は、同じようなパーツを使っているのに、なぜここまでに印象が違うのだろうか?

それはキャラクター作りにほかならない。悟飯には「DRAGONBALL EVOLUTION」の悟空のような内にこもった部分がないうえ、「グレートサイヤマン」として他人のために粉骨砕身できる人物だ。基本的に木訥(ぼくとつ)としているし、「DRAGONBALL EVOLUTION」の悟空がやった、いじめっ子に自身の車を破壊するよう仕向けさせるような復讐心とは縁遠い。そのため、読者は「周囲とちょっと違う自分が、世の中とどう折り合いを付けていくか」というテーマへ感情移入できるのだ。

 

「DRAGONBALL EVOLUTION」の悟空は、亀仙人から指導を受けてかめはめ波を習得しようとする。ここでキーとなったのは、なんとお色気だ。「かめはめ波で5つの灯籠に火を点ける」という試練を課され、とても無理だと落胆する悟空。そこにチチが現れ「点火に成功する度、自分に一歩近づいていい」とゲームを持ちかける。これを受けて悟空の集中力は増し、かめはめ波のキレも冴え渡る。火を点ける度に悟空はチチに近づいていき……、最後は熱い口づけをかわすのだった。自分に秘められた内なる力で女性と親密になってうれしがる悟空というのは、まさに解釈違い。「ドラゴンボール」登場人物の行動というよりは、現実世界におけるティーンの夢想。しかも中学生の時分にモヤモヤと思い浮かべてその恥ずかしさに気づく類の黒歴史系妄想だ。

 

また、「DRAGONBALL EVOLUTION」の悟空は手段を選ばないところがあるのも解釈違いである。「ドラゴンボールを手に入れるため、溶岩の池を渡らなければならない」というシーンがある。原作なら筋斗雲か舞空術でひとっ飛びなのだが、この時点の悟空はそうしたものは持っていない。ではどうするかというと、その場にいたピッコロ大魔王の手下モンスターを溶岩に放り込んで足場にするのだ。とはいえ、1体や2体を放り込んだところでドラゴンボールには届かない。そこで悟空が行った“工夫”が強烈だ。モンスターは斬り付けられると分裂する能力を持っているため、悟空はわざとモンスターを分裂させては溶岩に放り込み、分裂させては溶岩に放り込みと繰り返す。

そして、橋のごとく連なった死体を飛び渡っていくのだ。わざわざ分裂させているばかりか、躊躇が一切ないあたりがサイコパスっぽい。本編でいうと最初期のベジータがやりそうな所行を平気でやってのけるのだから恐ろしい悟空だ。ピッコロ大魔王の血から生まれたモンスターとはいえ、観ていて哀れになってくる。

もうここまでくると解釈違いというよりは完全な別物として割り切れるので、ファンの精神衛生にいい描写と言える……かもしれない。

 

世界の危機を前にお色気で発奮する好色さは、ある意味、亀仙人以上かもしれない。手下モンスターを分裂させて溶岩に放り込み、足場とする様は最初期ベジータ並みの邪悪だ。いじめっ子を懲らしめる際、わざわざ彼の愛車を巻き添えにするべく立ち回るあたりは、フリーザ様級の復讐心である。これだけの要素を兼ね備えている人間は強いし、伝説の大魔王にも立ち向かえるだろう。しかし、それは原作の悟空とはかけ離れた人物像であり、どちらかというとダークヒーローのそれなのだ。

 

しかし、数々の解釈違いがあるいっぽう、キャスト陣や特撮はがんばっている。

ピッコロ大魔王はダークでマッシブになっていて、ひと目で「これは世界を滅ぼすヤツだ」と納得がいく。飛行船で世界を旅し、はるか高空から軽く気弾を落とすと地面の村は消し炭になり、湖が蒸発するのだからとんでもない。まさに大魔王にふさわしい風格だ。

悟空がかめはめ波を伝授されるシーンは、実写ならではの情報量で印象的なものに仕上がっている。亀仙人や悟空が構えを取ると、腕の中に光る気が出現して渦を巻く。あくまで我々と同じ実在の人間が、気という武道の概念をベースに神秘的な光を生み出す。リアリティとファンタジックさが融合しており、「ドラゴンボール」を読んだ時の「自分も修行すれば気やかめはめ波が使えるかもしれない!」という胸の高鳴りがよみがえる。

そして、亀仙人や師匠も印象的だ。使うと弟子が死ぬのを知りつつ、苦悩のうちに「マフーバ(原作の魔封波、ピッコロ大魔王を封じる技)」を授ける姿や、亀仙人が自分の命と引き換えにマフーバを放つ様には、実写ならではの重みがある。

日本語吹き替えの豪華さも特筆すべきだろう。悟空は山口勝平が演じており、明るい声質とちょっとナーバスさを思わせる演技が本作の悟空にハマっている。また、ピッコロ大魔王は大塚芳忠、亀仙人に磯部勉など、実力派の声優陣が揃っていて聞き応えがある。

 

ちなみに本作はPSPで格闘ゲーム化されている。映画で出番が少なかった大猿やヤムチャ、そして「無理矢理分裂させられて溶岩の海に放り込まれるピッコロ大魔王の手下」や悟飯といったキャラクターたちも大活躍。ブルマは2丁拳銃でガン=カタを決め、ピッコロ大魔王が目からビームを放つなど、アクションも派手。中でも亀仙人が映画そのままのおっちゃん体型で激しくバトルする様に独特のカッコよさがあり、映画でもこうしたシーンをもっと見たかったと再認識させられた。

また、悟空がかめはめ波を放つ際はボイスこそ「かめアめハァ!」となまっているものの撃ち方自体は原作通りで、映画のように前方へ飛行しつつ気を放射したりはしない。映画版より原作っぽい、ある意味“こうした展開もあり得たもうひとつの「DRAGONBALL EVOLUTION」”といえるだろう。

 

本作を観た人は、「脚本家はなぜ『ドラゴンボール』のファンならまずしないような解釈をしたのか」という疑問を抱くと思う。実はこの謎には答えが出ている。脚本家のベン・ラムジー氏は公開から7年が過ぎた2015年に「『ドラゴンボール』のファンではないのにギャラに目がくらんで脚本を書いた」とし、謝罪のコメントを発表している(#)。続編では冒頭で悟空が死ぬという構想もあった(#)という。

 

本作を観ると、ティーンらしい悟空に感情移入できるのも確かで、彼が死んでしまうのは少し悲しい気もする。そうした意味では、続編が作られなくてよかったのかもしれない。その後の「ドラゴンボール」映像化でいい作品が続いているのは、本作が反面教師になったのかと妄想もできる。そうした意味では、原作付き映画について、大きな意義を持つ作品ともいえるだろう。

 

(文/箭本進一)